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7) 実体験としての記憶

ゲーム中盤以降については、具体的に書き記すと核心的なネタバレとなるので、概略する。

この物語は、ただ取り留めのない、私とトリコとの共存の日々だった。
しかしこの物語を、私はただ傍観したのではない。
この「私」と「私のトリコ」との共存の日々を、私は確かに、体験したのだ。


私は年季の入ったオタクだし、いい年をして漫画やアニメを手放しで嗜み、お気に入りのキャラに出会っては勝手な妄想に明け暮れ、挙句の果てには二次創作で自費出版をする、いわゆる「正しくない」ファンである。
そのせいか、何かというと穿った見方をし、斜に構えて知ったかぶる、恥ずかしいオタクなのである。

漫画、小説、アニメ、映画、演劇…あらゆるエンタテイメントを愛しているつもりだが、ゲームだけは専門外だと思ってきた。
もとより父がシステムエンジニアで、他の家庭には無いマイナーなゲーム機が平然と転がる家庭で育ったせいもあるかもしれない。
周りの友人達よりもずっと身近に[ゲーム]が存在し、父がプレイするゲームを兄が眺め、兄がプレイするゲームを私も眺めたが、私が率先してゲームをプレイしたことは無かったように思う。
どこか用意されたようなお誂え向きな謎解きや、技巧的な精度を競うようなタイムトライアルや、周回やり込み限定アイテム、あるいは美麗な画面の中で繰り広げられる壮大なストーリー…。
正直なところ、ありとあらゆるゲーム的なそれら諸々の要素に魅力を感じることが出来なかったし、
それがゲームでなくてはいけない「ならでは」の要素を見出すことが難しかった。

だから中々こういったゲームをプレイしようと思わないのだが、此度のご縁によりこのゲームをクリアしてみて、改めて思ったことがある。
この世で己が己としての自我を保ちながら体験することのできるエンタテイメント、それは何よりも、ゲームのみが持ち得る可能性なのではないだろうか
おそらく旦那が「自分の力でプレイしてほしい」と強く望んだ理由が、ここにこそあるのだと思った。


私はこのゲームのクライマックスで、とめどなく溢れる涙を拭うことも出来ずに、ただ目を凝らしてトリコとの一瞬一瞬を体験した。
最後の最後で、私は自らの行動により、トリコではなく、私自身を救ったのだ。
私はあれをバッドエンドだと思わない。
傍観者として見届けるのではなく、私は私の意思で、私自身を救うことができたからだ。


約10日以上を費やし、途中挫折しかけ、散々な悪態を付き、旦那と険悪なムードになりながらもプレイした「人喰いの大鷲トリコ」。
普段ならゲームという媒体にこれほど固執することのない私が、もう1周、今度は息子と共にプレイしようと考えている。
何故なら、私が私のトリコと確かに築いた信頼を、[少年]と齢等しい息子が、息子のトリコとどのように築き直していくのか、ただ見てみたいのである。

この世界には、このゲームをプレイしたユーザーの数だけ、それぞれのトリコが生きている。

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